先日の京都大学のカンニング事件で、過剰じゃないかと思えるほどの報道がなされています。
カンニングをした予備校生のプライベートまで報道する必要があるのか?という気がします。ニュースはいつからワイドショーになってしまったのか…。

さて、それは置いといて、今回のケースと集合知について考えてみます。
昔は、カンニングといえば、隣の人の答案を盗み見たり、カンニングペーパーを持ち込んで、それをこっそり見たりするという手口が普通だったと思います。今回の手口は携帯電話を使って、Yahoo!知恵袋で回答を募集するというものでした。

我々が普段、仕事をする際には、参考資料を見たり、今回の問題と同じようにインターネットで情報を調べたりすることが多々あります。もちろん、詳しい人に相談することだってあります。今の世の中、一人の力だけで仕事を完結させるということがだんだん少なくなってきているように思います。
「三人寄れば文殊の知恵」とはよく言いますが、集合知がかなり要求されている時代にはなってきています。
企業の中では、ナレッジマネジメントのあり方が検討され、社内データベースが整備されたり、twitterやFacebookなどのソーシャルメディアも凄い勢いで広がっています。そのような中で、なぜ今回のカンニングがダメなのかということを考えてみると、いくつかのポイントが浮かび上がってきます。

(1)大学の入試が、知識だけを問うものになっていて、コミュニケーション能力やプレゼン能力、情報収集能力などを問うものになっていない
→ 上に書いたように、現在の社会では、集合知をうまく使う能力がかなり求められています。今の入試制度ではそれがうまくキャッチできないように思えます
(2)だからといって、ベースとなる知識が無くて良い訳ではない
→ 独創的な研究、発展的な研究というのは前提となる知識・能力があって初めて成り立ちます。そういう意味で、今の入試制度が無駄なわけではない。ただ、受験する側としては、単なる年号の丸暗記や使えもしない四字熟語、ことわざ、古文・漢文なんか常識の範囲で覚えておけば良いような気はする
(3)集合知は、「教えて君」だけでは成り立たない
→ 今回のカンニング事件は、回答を書き込んでくれる人がいるからこそ成立しました。仕事をする上でも、様々な情報源を使って自分の仕事を完結させますが、あくまでも参考資料であって、それを自分の中で咀嚼し、組み立てなおしてこそ良い仕事ができます。
例えば、誰かの講演を聞きに行ったとき、その内容が、どこかで見たり聞いたりしたことのある資料の切り貼りだったらどうでしょうか?独創的な組み合わせになっていることも、たまにはありますが、大抵はがっかりするのではないでしょうか。
自分たちの持っている知識・知恵を出し合って、相乗効果を求めることは非常に有意義ですが、誰かの能力を当てにして依存しあってばかりの社会は衰退していくことでしょう

いっそのこと、大学の入試は、ノート・参考書は自由に持ち込み可にしてしまってはどうでしょうか?(大学に在籍していたときは、結構、そんな試験がありました)
調べればわかることを入試の時だけ一生懸命覚えて、入試が終わった途端に忘れてしまうというのはもったいない。同じ時間を別のことに使った方がずっと有意義だと思います。もちろん、そうなると、今までとは違った形式で入試問題を作る必要も出てくるかもしれません。しかし、単なる「物知り」というだけでは社会に通用しなくなっている中、そのような形態の入試も考えてみる必要があるのではないでしょうか?